雨の国の王子
1st
むかしむかし、まだあらゆるものが互いに言葉を交わしていたころ、雨の国にひとりの王子さまがおりました。
王子さまには昔、ただひとりの友だちがいました。花の国に住む、ミモザという名前の、楽しそうに笑う王女さまでした。
「mimosa」
雨の国の王子さまは、花の国の王女さまを、くわしく知っているわけではありません。ほんのすこしの間、国と国を繋ぐ門を挟んで、お話をしたのです。あんまり知らないから、忘れられないのかもしれません。
「rain」
王女さまに会う前はとっても泣き虫だった王子さまですが、お別れをして、ぴたりと泣くことができなくなってしまいました。毎日がかなしくてたまらなかったのに、今は心の在り処が分からなくなってしまったのです。
「冬眠」
雨の国の王様は、自分の涙だけでは他の国に輸出する雨が足りずに、困り果てました。ある日王様は、雨の国の青いお城でパーティーを開き、たくさんの人を呼び寄せました。誰か王子の心を動かしてくれないかと考えたのです。旅の吟遊詩人が、ギターを弾いて歌っています。
「旅路」
「王子よ、お前が涙を流さなくなってどれほど経ったか。あのときは、友だちと引き離して悪かった。しかし、国の境目を越えたら、お前は名前をなくして、消えてしまうんだよ」王様はパーティーでお酒をのんで、赤い顔をしながら泣いていました。
「まつりのあと」
「お前はもうすぐ王になる。大事なものが増えていくんだ。花の国の王女さまは、即位を待たずに枯れてしまうのではないかという噂だ」お城の青い壁のせいか、王子さまは目の前が真っ青になった気がしました。
「blue」
夜が更け、寝室で王子さまは毛布に包まって丸くなっていました。パーティーは続き、下の階からはまだ賑やかな声が聞こえます。
「寝室」
花の国の王女さまは、雨が足りなくて枯れてしまうのでしょうか。王子さまは他にもひとつ、心当たりがありました。
一緒にいられないと分かっているのに、出会った意味など、あったのでしょうか。
「つぐみ」
王子さまは立ち上がり、出かける支度を始めました。会いたい人に会いにゆくと決めたのです。やっと自分の旅を始めることにして、すがすがしい風が胸を通るのを感じました。「どうせすぐに終わる旅だ」王子さまは、言い聞かせるようにつぶやきました。
「銀河」
2nd
花の国の空に見た、夏の終わりの花火を思い出します。橋を渡ると、あんなに頑丈だと思った国境の門も、簡単に越えられてしまいそうです。故郷に小さくさよならをして、王子さまは門に足をかけました。
「故郷」
門を越えて花の国にたどり着きました。自分が名前をなくすまでの時間制限は、どれぐらいなのでしょうか。王子さまは恋を知りませんが、我をなくすという言葉が正しいならば、これは恋かもしれないと思いました。
「からたち」
花の国のお城に、ロープの梯子をかけて登ります。一番上の小さな窓に、王女さまを見つけて窓をたたきました。王女さまは一度振り返り、目をまんまるにして窓を開けました。「今度は、僕から来たよ。話したいことが、山ほどあるんだ、くだらないことばかりだよ」
「すばる」
王女さまには、出会った頃の面影はなく、しおれそうに見えました。震えそうな声をおさえて深呼吸すると、王子さまの瞳から、ずっと流れなかった涙が、真珠のようにひと粒こぼれました。
「かぞえうた」
王子さまの涙は、はらはらと溢れて止まりません。「あのとき無理をして追いかけてくれたから、あなたはこうなってしまったんでしょう」王女さまは本当も嘘も言えずに、困った顔で笑いました。
「もっと早く言えばよかったんだ。好きになるってなんなのか、ぼくには分からないけど、ぼくはあなたがほんとうに大事だよ」
「〇一」
「ここから逃げよう」王子さまは言いました。「こんなのは、ひどい間違いかもしれない。それでも、一緒に、ここから逃げよう」涙はもう部屋じゅうを水浸しにしていました。王女さまは頷きました。
雨の国の王子さまが花の国の王女さまの手をひくと、部屋に花びらが散りました。まるで雪のようでした。
「逃避行」
雨は降り止まず、やがて、あらゆるものがすっかり水で満ちてゆきました。ひかりの降り注ぐ雨のプールに、花びらが絶え間なく踊り、きらきらと輝いています。ふたりは、名前をなくして地続きになった世界を、嬉しそうに泳いで、消えてゆきました。
これで、ふたりのお話はおしまいです。そのプールが、海という名前で呼ばれるようになるのは、また、ずっと後のお話。
「トロイメライ」新
en.「真夜中」