船の上のおはなし4
「おうちはどこ」
「さっきからずっとなに読んでるん、あれやろ、いかがわしいやつやろ」
昼食をとり、せっかくみんなでくだらないおしゃべりをしようと思ったのに、サヨは散歩に出かけ、マービーはカラフルな屋根が並ぶおしゃれな街の写真が表紙の雑誌にじっと見入っていて構ってもらえないので、さりげなく丁重かつ上品にお声がけをした。マービーはなぜかむっとしてこちらを見た。
「俺ね、今度、引越しするの。真面目に物件見てるんだから、邪魔しないで」
「へえ、おうち、引越しするん」
「んー」
「どこ引越すん」
「んー」
「サワは可愛いなあ」
「んー」
「千円ちょうだい」
「んー」
「ほな一億円ちょうだい」
「んー」
表紙には【スーム5月号 あなたのおうちになりたい 快適! 一人暮らし向け物件特集】と書かれている。彼はそうしてまた、物件情報の世界へ旅立っていった。ちぇ。ほんまに請求したろか、一億円。相手にされへんやろうけど。
引越し。引越すためには、もとのおうちが必要だ。サヨとマービーは時の船に仕事のたび通っているが、ツチヤ船長とサワはこの小さな船に寝泊まりしている。家賃がかからないのがこの仕事を受けた決め手だった。今の生活になんの不満もない。強いて言えば、船内に湯船がないから好きな入浴剤が使えないぐらいか。船長も広いお風呂が好きだと言っていたけど、たまには入りたくならないのだろうか。
なんも持たへんかったら、手放さんでええもんね。身軽が一番やわ。話し相手になってくれないマービーなどほうっておいて、散歩中のおサヨちゃんを探しにいこう。そんでくだらない話をして構ってもらおう。
船を出ようとすると、船長室の扉がすこし開いて日差しが零れていた。珈琲のいい匂いがする。部屋の奥でなにかを真剣に読み耽っている船長が見える。カラフルな表紙が目を引いた。まあ、こちらも読書ですか。いかがわしいやつかしら。軽口をたたこうと扉に近寄り、そして、
手が止まった。みるみる血の気がひいていくのが分かった。
* * * * *
「ぜったい、おんなしやった。絶対おんなし表紙やった」
顔面蒼白のサワに呼び出されて、サヨは甲板に来た。ツチヤ船長が、マービーが見ていたのと同じ物件情報誌を食い入るように見つめていたというのだ。
「うちらはクビや。船長は船長をやめて引越すつもりなんや。ここでのコンサートも、おしまいや」
そこまで話が飛躍するだろうか、とは思いつつ、本当の話ならサヨもすこし心配だ。ツチヤ船長あってのこの船だ。でも、別に住み込みはサワに任せて、ちゃんとゆっくり住める場所を作りたいのかもしれないしさ。目に涙をためたサワは、サヨの意見を聞いてくれそうにはなかった。
「こうやって、ここがなくなるって知ると、自分の家なんてないって思ってたのに。うっ。なくすもんなんてないって。ちゃうかった、わたしのおうちはここやったんやなって、大切な場所やったんやって、分かるもんやね。ううっ」
サワが鼻をすすった。え、いや、まだここがなくなるなんて、誰も言ってないんだけど。なだめようと口を開いたとき、足音がした。
「ツチヤ船長」
サワの表情がこわばった。船長はカラフルな屋根が並ぶ温泉街が表紙の雑誌を、嬉しそうに抱えていた。表紙には、【スーム6月号 たいせつなあなたと 楽しむ建築の意匠 お値打ち!温泉宿特集】と書かれていた。
「二人とも、こんなところにいたの。いつもありがとうね。ねえ、日頃のお礼になにができるか考えたんだけど。この船はお風呂がないじゃない。たまにはみんなで、広いお風呂に浸かりたいなって。なかなか恥ずかしくて言い出せなかったんだけど、みんなは梅雨明けの連休の予定、どうかな」
サワは大げさに泣き出して、船長は意味が分からずおろおろしている。
おうちって、何なんだろうな。帰る場所。心をリセットする場所。深呼吸ができる場所。ひとにはきっと、おうちがあったほうがいい。
サヨにとっても、いつの間にかこの船が、心のおうちになっていた。
みんなで温泉、たのしみね。
了