船の上のおはなし5

最終回

「紫陽花と海賊」

 

 

 その海賊は、紫陽花とともにやってきた。

 

 このところ港に貼り出されていた、豪快に白い歯を見せて笑う、がたいのいい男。なかなかの額の懸賞金がかけられている。

 

「またこいつだ。この海賊の貼り紙、よく見ますね」

 

 昼食後にみんなで散歩をしていて、マービーが何気なく口にした。

 

「けさの新聞にも出てたで。悪名高い海賊のドラ息子で、親の船から逃げて、そこらじゅうのクルーズ船を荒らして回ってるねんて」

「え、こわいですね」

 

サヨが眉をひそめる。

 

「まあ、俺たちの清貧な小舟が海賊くんのお眼鏡にかなう日は来ないよ。ねえ、ツチヤ船長」

「それが、規模のちっちゃい貧乏クルーズ船ばっかりを狙ってくるらしいねん。うちも気いつけたほうがいいですよ、ツチヤ船長」

「あの、怒ったほうがいいですよ、船長」

 

 三人が振り返ると、船長はお尋ね者の貼り紙に釘付けだった。

 

「……船長?」

「うん? あ、ああ。そうだね」

 

 話聞いてましたか、と言いかけて、なんとなく問い質しにくくて、サワは二人と顔を見合わせた。

 

 最近うちの船長は、様子がおかしい。

 

 

 

****

 

 

 

 今日も、夜のクルーズが始まる。乗船受付が済んだら楽器の用意をして、お客さまが食事を終えるのを待つ。会話とご馳走に飽きたころ、甲板に出てきたお客さまへ音楽のデザートをお出しする。ひと通りいつものナンバーを演奏したら、演奏リクエストを受け付けるのがコンサートの流れだ。

 

「それでは、ここからはお客さまのご要望をお受けします。お聴きになりたい曲がありましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けください」

 

 今夜、時の船は港町の地域画壇が貸し切っていた。団体展の打ち上げだそうだ。画家やら講師やら画材屋やら、普段会うことのない人たちが集まっていて、サワは楽しかった。

 

 

 そういえばツチヤ船長と出会ったころ、彼は喫茶店をやっていた。

 

 店には所狭しと花々の油彩画が飾ってあり、印象に残って時々通うようになった。珈琲の匂いを吸い込みながら、窓際にある紫陽花の絵を眺めるのが好きだった。

 

 柔らかく瑞々しい花たちの絵の作者を聞いたところ、店長は「学生時代の友だちなんだ。わけあって、今は絵を描いてないんだけど」と独り言のように教えてくれた。

 

「僕は、彼が絵を描いてなきゃ、今ここにいなかった。彼に、店の壁一面に花畑を描いてもらって、そこでこだわりの珈琲豆を売るのが僕の夢なんだ」

 

 

 ぼうっと回想していると、一人の大柄な男が、大きな四角形のなにかを持って楽隊の前に進み出た。

 

「素敵な演奏をどうも。これを差し上げるかわり、ひとつリクエストしてもいいかな」

 

「わあ、なんでしょう? もちろんでございます」

 

 彼が差し出したのは、淡い青色の紫陽花の絵だった。あれ、これって。

 サワは驚いて見上げ、更に驚いた。そこにいた男は、昼休みに貼り紙を眺めた、あの。

 

「か、か、海賊くん…」

 

「話が早いね。でも海賊くんじゃあない、わたしにはアカリという名前があるよ。リクエストなんだけど、ツチヤさん、いますか」

 

 甲板は、突然のお尋ね者登場にどよめいた。悲鳴をあげ船内に逃げ込む人たち、好奇の目でやり取りを見つめる人たち。

 

「うちは、えっと、クルーズ船や言うても、ほんま、その、零細企業ですから、お金はありません」

 

「欲しいのはお金じゃないんだ。ツチヤさんを呼んでくれるかい」

「さ、サワさん、わたし、呼んできます」

 

「やっと来たのか、アカリくん」

 

 楽隊がまごついているうちに、異常を察した船長が甲板に現れた。

 

「お久しぶりです。ちょっと有名になってしまいましたが、もう親父にも恩は返したでしょう」

 

「えっ、ちょっと、知り合いなんですか、海賊と船長が」

 

「やれやれ、港町はきみのブロマイドだらけだよ。わりと遠くまで逃げなくちゃいけないかもね」

 

「ぼくは珈琲の香る場所で絵を描きたいだけ、あなたはキャンバスのある場所で珈琲を淹れたいだけ。そしてここにはどこへでも行ける素晴らしい船がある」

 

「え、ちょっと、海賊と船長が」

 

「時の船という名前にしたんだ。豊かな時間を運ぶように。ぴったりだろ」

 

「港町の清貧なクルーズ船ってだけじゃ、ヒントが少なすぎますよ。結構探しました」

 

「え、ちょっと、どういう」

 

 華麗なスルーを受けてしょんぼりしているサワに、海賊はさっきの紫陽花の絵を、ぐいと押し付けた。

 

「餞に差し上げよう。この船は今日で解散だ。この絵は二年も経ってから売れば、きみたちの未来のための資金ぐらいにはなる」

 

「ちょっと、もう、話が見えません」

 

「きみたちの船長はこれから、いきなり現れた大男の海賊くんと、過去を取り戻す旅に出るのさ」

 

 甲板からはすっかり人の影が消え、サワたち三人と海賊と船長だけが夜の海に揺られている。

 

「ツ、ツチヤ船長」

 

「うん。ごめんね。みんな、時の船クルーズは、今日でひとまずお仕舞いだ。わがままだけど、今から起こることは忘れてほしい。ねえ、ぼくも最後に一曲、いいかな」

 

 

呆気にとられるまま、楽隊は船長がリクエストした船旅の祝い歌をぎこちなく演奏した。

 

 波は素知らぬ様子で、いつも通り穏やかに合いの手を打った。

 

 

 

*****

 

 

 

「葉書来てるわよ、サワって人から。やあだ、この画家さん、お母さんファンなのよ」

 

 母から受け取った絵葉書には、繊細な筆致で淡い青と桃色の紫陽花が描かれていた。遠い町に住む新人気鋭の画家の、誰もが知る代表作だ。

 

 取材はいっさいお断り、取り次ぎをするのは城下町にある珈琲屋の店主だけ。彼に絵を依頼するにはその珈琲屋へ行くしかない。店の壁は中も外も彼の描いた花々に溢れていて、絵の前で珈琲を持って写真を撮るのがいま、城下町の一大トレンドらしい。

 

 ほんとうはこの店主が絵を描いてるんじゃないかとか、画家は借金のかたに監禁されてるんだとか、じつは人間じゃなくて妖精だとか、憶測が飛び交ううち、彼は一躍ミステリアスな人気画家になった。

 

「こんなに儚い絵を描くなんて、きっと薄幸の美少年に違いないわ」

 

「あ、うん、そうだね。ありがと」

 

 

 あれから二年半ほど経ったろうか。

 

 サヨがあのクルーズ船にいたのはほんの少しの間だったが、思い出がぎゅっと詰まった時間だった。サワの癖のある字が葉書に踊っている。

 

 

『前略 おサヨちゃんへ

 

 今年もあっついねえ。あんじょうやってまっか。船長やマービーやおサヨちゃんと過ごした時間は、今でも宝物です。

 

 あれから二年経って、馬鹿正直に画商に絵を持っていったら、目を丸くしはってね。どないして彼の過去の作品を手に入れたんですかって、もう、質問攻めよ。どないして、って、なぁ。えらい額で買い取ってくれはったわ。雑貨屋でもこんな絵葉書売ってるぐらいやから、あの人ら、うまいことやらはったもんやなあ。

 

 さて、わたしたち、一緒に店をやりませんか。絵を売ったお金で、港町の外れに、猫の額ほどの物件を借りました。

 

 いつか水先案内人を引退したらささやかな食堂をやりたいと夢みてたんやけど、実現がずいぶん早くなってしまいました。

 

 マービーにも葉書を出しました。あの頃みたいに歌って楽器弾いて、お酒やおつまみも出すようなお店を、あなたがたとできたらこれ以上の幸せはありません。食堂の名前ももう、決めてあるんです。誰かの夜を、そっと照らす灯りになれるような。

 

 返事、急がへんので、お手すきのときに待ってます。早々』

 

 

 

へへ。

また、騒がしくなるな。

 

目から水が出たので、サヨは欠伸するふりをした。